中東情勢が不安定化するなか、脅威を機会ととらえ、事業を推進する上で重要なポイントは何か。長島・大野・常松法律事務所の大澤大 弁護士(パートナー)と、松永隼多 弁護士(アソシエイト)と意見を交わしました。
第5回となる本稿では、イランの地政学リスクを軸に、企業が取るべき実務対応について、現地法律実務や有事の退避、シナリオ分析の重要性を議論します。
※第2回~4回については、長島・大野・常松法律事務所のサイトでの掲載となります。末尾に各回のリンクを掲載していますので、あわせてご覧ください。
左から、長島・大野・常松法律事務所 松永 隼多 氏、長島・大野・常松法律事務所 大澤 大 氏、KPMG 滋野井 公季
【対談】
長島・大野・常松法律事務所 パートナー 大澤 大 氏
長島・大野・常松法律事務所 アソシエイト 松永 隼多 氏
KPMGコンサルティング マネジャー 滋野井 公季
1. イランの地政学リスク
大澤氏:
本連載の最終回として、イランを取り上げるとともに、リスクを踏まえたシナリオシミュレーションや今後の中東情勢と実務対応について取り上げてみたいと思います。まず、イランに関する地政学リスクの概観についてご説明いただけますか。
滋野井:
過去10年間の中東地政学はイランが影響力を拡大した時代で、2023年10月7日のハマースによるイスラエル越境攻撃を起点に、イスラエルが情勢を再編する時代になったと言われています。この大きな潮流のなかで、イランは戦略・地政学的に大きく後退を強いられています。現在イランは、対外的にはアメリカとイスラエルと再び衝突するリスクに直面し、対内的には通貨価値の下落や食料品や医薬品の高騰、物価高などの経済問題に端を発する大規模な反政府デモが全国に広がっています。専門家は、イランの現体制は今後長期にわたって不安定な状態が続くと分析しています。
大澤氏:
米国やイスラエルからは「体制転換」という言葉が繰り返し発せられていますし、2025年末から起きている大規模な反政府デモも体制への不満や変革を訴えるものだと思います。このようにイラン当局は外部と内部双方からの不安定化に直面していますが、こうした情勢の見極めは現地で事業を行う企業にとっても極めて重要な点であるように思います。
滋野井:
おっしゃるとおり、このように事業拠点を置く、あるいは事業上関係のある国が不安定化した際には、従業員の安全確保は最重要論点となります。昨年イランはイスラエルや米国と交戦しましたが、そうした外部との衝突と、内部からの衝撃は質的に異なります。
というのも、外からの攻撃に対しては、一時的に空域が封鎖されて民間機の乗り入れが停止したりしますが、たとえば陸路で隣国へ逃れる経路が閉ざされるわけではありません。反対に、大規模なデモや内戦などのケースでは、空港だけでなく幹線道路が閉ざされたり、デモ隊と治安当局の衝突などの危険が増して退避が困難になります。
今回のイランの場合は、インターネットが遮断されているので、退避のタイミングが遅れてしまうと連絡が取れず、外部からの情報が限られるなかで単独で行動することが強いられる状況下に置かれてしまいます。このように政情不安になった際の安全確保や退避オペレーションは非常に難しくなるため、まずはリスクを構造的に把握したうえでモニタリングポイントを定めて情報収集・分析をすることと、リスクが高まった段階で避難の意思決定をするメカニズムを用意することが重要となります。
大澤氏:
有事の際のオペレーションについては後ほどまたお伺いしたいと思います。法的観点としては、有事発生時の法務対応としては、他の地域と同様に、不可抗力事由の検討が必須となりますね。
松永氏:
先ほどのとおりアメリカやイスラエルとの関係や内政事情、ホルムズ海峡の問題など、イランに関しては多面的かつ現実的なリスクがあるため、実務上は、これらのリスクを含めて、現実に不可抗力条項を発動する具体的な可能性があることを念頭に置いて、契約書を見直す必要があります。具体的には、不可抗力事由の定義や不可抗力条項の効果や手続要件など、詳細についてさまざまなシナリオを想定して検討する必要があります。
大澤氏:
想定されるリスクに対して適切かつ十分な契約上の手当ができているか、日頃から意識的に検討しておくことが大切ですね。
ホルムズ海峡封鎖の可能性は、日本企業にとっても注目度が高いと思います。もしホルムズ海峡が封鎖された場合は、原油価格へのインパクトが大きく、日本企業のビジネス、ひいては日本経済全体に影響が及ぶと理解しています。実際問題ホルムズ海峡が封鎖されるリスクは高まっているのでしょうか。
滋野井:
ホルムズ海峡封鎖のリスクは一般的には低いと考えられてきましたが、最近ではリスクが高まっているという分析もあります。その双方を紹介したいと思います。
ホルムズ海峡が封鎖されるトリガー条件としては、イラン側のレッドライン(核施設・最高指導者や軍司令部)が攻撃された場合や、体制崩壊や革命防衛隊が危機に瀕した際に「捨て身の戦術」として世界のエネルギー・海運を人質に取って交渉する場合などがよく指摘されています。ただし昨年の「12日間戦争」では前者のトリガー条件に抵触したものの実際には海峡は封鎖されませんでした。
ホルムズ海峡はイラン経済にとっても大動脈にあたります。同海峡を封鎖した場合、イランが対立している米国やイスラエルに対する負の影響よりも、イランの友好国や中立国へのダメージが大きくなります。今回のデモはイランの経済的苦境が大きな原因でもあるので、ホルムズ海峡を封鎖することによって得られる便益よりも、被るコストの方が圧倒的に高いことが予想されます。
したがって、合理性の観点からはホルムズ海峡封鎖の可能性は低いと考えられていますが、危機に瀕した際の「捨て身の手段」として同海峡を封鎖するリスクに言及する有識者もいます。また実際に艦船や機雷の敷設によって物理的にホルムズ海峡を封鎖せずとも、イラン情勢が不安定化するなかでジャミングなどにより同海峡を航行する船舶に影響が生じると、迂回せざるを得ない状況に陥ります。このように結果的に封鎖と同様の効果が生じてしまうリスクは十分に考えられると思います。
KPMG 滋野井(右)
2. 地政学リスクへの対応
大澤氏:
先ほど滋野井さんにお話いただいた有事の際のオペレーションについて伺いたいと思います。何らかの事案が生じた場合、実際の対応事項やオペレーションにおいて重要な点は何でしょうか。
滋野井:
有事の際の退避に関しては、第1に、具体的な退避オペレーションや行動マニュアルを事前に考えておくことが非常に重要になると思います。深刻な事態に陥ってから急いで考えるのでは限界があります。KPMGでも退避オペレーション策定やマニュアル作成、実際の訓練などの支援を行っています。
さらに、より上流の観点では、個別のリスク事象に対する対応策を整理する前段として、中東全体や各国単位の地政学リスクに対する解像度を上げ、影響のシミュレーションや優先順位づけ、対応事項や法的な論点についても洗い出して検討しておくことが重要だと思います。地政学的なリスク事象が生じた際の対応を含めた、シナリオシミュレーションは非常に効果的です。
大澤氏:
具体的なリスクの性質・内容に応じて、リスク対応の方法も変わってくると理解しています。先ほどシナリオシミュレーションというキーワードがあがりましたが、リスク管理にはオールハザード型のアプローチもあると思います。この2つの使い分けはどのように考えたらいいでしょうか。
滋野井:
リスク管理の考え方の1つに「リソースベース」や「オールハザード型」と呼ばれるアプローチがあります。要は、パンデミックや自然災害、戦争などの原因のいかんにかかわらず、何らかの形で事業オペレーションに支障をきたすという結果から出発して、その対応を準備しておくというアプローチです。たとえば、理由を問わずに製品の生産に必要な原材料の供給が途絶したと仮定し、対応策を検討しておくといったものです。このアプローチの利点として、さまざまなリスク事象に幅広く対応できるという点が挙げられます。
大澤氏:
次にシナリオベースのアプローチとはどのようなものでしょうか。
滋野井:
シナリオベースのアプローチは、オールハザード型と対照的に、特定のリスク事象を掘り下げて対応を検討するアプローチです。たとえば、イランとイスラエルの交戦が再燃した場合や、イラン国内の動乱が高まるケースを念頭に、事態がどのように進展するかというリスクシナリオを想定して、エスカレーション・ラダーのそれぞれの局面における影響を分析したり、それを基にモニタリングポイントを設定したりします。その際にエスカレーションのトリガーポイントを措定して、どのタイミングで退避を決断するか、その際にどういったレポートラインで意思決定するか、オペレーションをどうするかなどを検討することもできます。
大澤氏:
海外、とりわけ中東地域で事業を展開するうえでは、平時の段階から有事を想定して準備をしておくことが重要だと再確認しました。
滋野井:
重要な点を強調していただきありがとうございます。この対談の主題の1つである「地政学リスク」という切り口から検討を開始し、まずは何を考えるべきかという論点の整理から始め、各種論点を深掘りしていって、実際にリスク事象が生じても対応できるようにしておくのが理想だと考えております。
松永氏:
そのようにして検討された具体的な対応方法が、中東各国における現地の法律実務の観点からもきちんとワークするかについて平時の段階から確認しておくことも重要ですね。
大澤氏:
そうですね。ありきたりなマニュアルを作成して満足するのではなく、必要に応じて外部専門家からのアドバイスを得ながら、自社にとって特に手当すべきリスクを特定・抽出し、特に対応優先度の高い具体的な想定場面を念頭に、具体的かつ実務的にワークする対応を検討しておくことが重要ということですね。
長島・大野・常松法律事務所 大澤氏
3. おわりに
大澤氏:
ここまで全5回にわたって、中東地域にフォーカスして、地政学リスクと法律実務という切り口で議論してまいりました。第5回では、イラン情勢をテーマにリスク対応のポイントについても伺いました。松永さんには中東各国の現地の法律実務対応について説明いただきましたが、最後に一言お願いします。
松永氏:
近年、中東地域においては新たな法律が数多く制定されています。日本の法律実務の感覚とは異なる点も多く、実際の対応を検討するにあたっては、中東各国における最新の法規制環境や現地の法律実務を踏まえた実務的な観点が欠かせません。
大澤氏:
滋野井さんからも、最後に一言いただけますでしょうか。
滋野井:
中東情勢は大きく動いています。「見えないリスクがある」ことが最大のリスクであるとも言えるので、まずは地域を俯瞰してリスクを正確に把握することが第一歩だと思います。そのうえで、有事を念頭に置いたリスクシナリオのシミュレーションや対応の検討をしておき、日常的には情報収集や分析を行い、感度を高めておくことが重要なのではないかと考えています。
大澤氏:
第1回で申し上げた経営判断の原則をはじめとする日本の会社法の考え方も念頭に置いた上で、総合的なリスクマネジメントの観点や現地法律実務、とりわけ日本と異なる思考や検討を行うべき場面はどのような場面かなども踏まえて、中東各国の地政学にかかわる情報収集・分析を日頃から行うとともに、それに基づき具体的に何をしなければならないのか、検討している具体的な対応が現地法律実務に即して実効的なのかなどを常に考えておく必要がありますね。
長島・大野・常松法律事務所 松永氏(左)
シリーズ一覧(第2回~第4回は、長島・大野・常松法律事務所のサイトへ遷移します)
第1回:中東の地政学と現地法律実務を取り入れたリスクマネジメント
第2回:アラブ首長国連邦(UAE)の地政学リスクとオポチュニティおよび現地法律実務の論点
第3回:サウジアラビアの地政学リスクとオポチュニティおよび現地法律実務の論点
第4回:中東ビジネスのリスクマネジメントのあり方と実務対応
<話者紹介>
大澤 大
長島・大野・常松法律事務所 パートナー
2013年東京大学理学部物理学科卒業。2015年長島・大野・常松法律事務所入所。2021年University of California, Berkeley, School of Law卒業(LL.M., Dean's List, Business Law Certificate)。2021-2022年経済産業省勤務(貿易経済協力局(当時)貿易管理部安全保障貿易管理政策課、同課国際投資管理室、同部安全保障貿易管理課、同部安全保障貿易審査課、大臣官房経済安全保障室に所属)。2025年長島・大野・常松法律事務所パートナー。
M&A・コーポレート案件の豊富な経験と、日米欧中を含む経済安全保障に関する深い政策・運用知見を融合し、企業法務全般をサポート。経産省で外為法等の立案から審査・執行、各国連携まで担った経験を背景に、戦略的かつ実務的な助言を提供している。
松永 隼多
長島・大野・常松法律事務所 アソシエイト
2015年東京大学法学部卒業。2016年長島・大野・常松法律事務所入所。2023年SOAS University of London(ロンドン大学東洋アフリカ研究学院)卒業(LL.M.)。2023年–2024年Uría Menéndez Abogados, S.L.P.(Madrid、Brussels)勤務。2024年Bredin Prat(Paris)勤務。2024年–2025年AMERELLER(Dubai)勤務。
国内外のM&A、買収ファイナンス、金融取引等、企業法務全般にわたりアドバイスを提供している。また、欧州及び中東地域における執務経験を踏まえて、欧州・中東・アフリカ地域における日系企業に関連する法律業務に従事している。
滋野井 公季
KPMGコンサルティング マネジャー
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士課程満期退学。アルジャジーラ研究所客員研究員、ハマド・ビン・ハリーファ大学客員研究員、外務省専門分析員などを経て2024年より現職。
KPMGでは地政学リスク対応、中長期戦略策定に向けたビジネス環境分析、企業のインテリジェンス機能・体制構築支援、公共部門向けの経済安全保障関連支援などに従事。